そして…

 理学部ダイバー(モグリということですな)を決めて3日ほど後、研究室に入っていくと、池田さんが暗い顔でYさんと話していた。何となしに居心地の悪さを感じて窓際の椅子に腰をかけ、タバコをくわえた。
 Yさんが、「よぉ、ハッシー!、どこか人が入ってこないギフの産地を知らないか?」と聞いてきた。前年春、多摩丘陵の御殿峠へ、ひょっとするといるかも…と淡い期待を抱いて出かけていって、そんなに甘いもんじゃないということを知らされていたボクには心当たりはなかった。
 訳を聞くと、池田さんが修論の野外実験のフィールドにしようと思っていた場所が「月刊○し」に載ってしまい、採り屋が跋扈していて調査などできないと言うのである。研究の内容を聞いてみると、ヒメギフでもできそうだから、「ヒメギフじゃダメなんですか?」と問うと、「ヒメギフでもいいけど、いい場所がねぇだろう?」と言う。ちょっとためらったが、「宮城なら絶対に人の入らない所がありますよ」と言ってみた。何せ新幹線の通っていない時代、上野から5時間以上もかかるのだから、この話に乗ってくるとは思わなかった。
 池田さんが即座に、「いいよ。行ってみよう」と答えた。切羽詰っていて選択の余地などなかったのである。早速週末に加護坊山(当時田尻町、現大崎市)へ夜行で出向いた。
 早朝に我が家に着き、朝飯を食べてから自転車を連ねて出かけた。2、3ヶ所のポイントを周るうちに池田さんがふと、「ここに通うか…」と漏らした。最終的に植林後5、6年のスギの二次林の西向き斜面に決まった。ここはボクとSが初めてヒメギフを採った翌年に見つけたポイントで、東京に出るまで2年間通いつめた場所である。4月の頭、足元のウスバサイシンの新芽はまだ固かった。
 家に戻り、宿借りの協力を我が家に頼むと、親父もオフクロもボクの部屋が空いているので自由に使っていいと言う。その夜の上りの夜行で東京にトンボ返りして学校に行き、ボスに報告、そして調査区設定の準備にかかった。50m×60mのエリアに1辺5mの方形区を作っていくというのである。全部で120区画…。ついでにウスバサイシンの株数のカウントも済ませたいとのことなので、再訪は翌週に決まった。
 同時に室内実験の装置の作製にかからねばならないのだが、これはボスが音頭を取った。
 恒温槽の温度コントロールは、ガラス管に入れた水銀の体積変化を白金線で捉え、ヒーター加熱とクーラーからの冷水注入で行うのだという。手製の回路図を前に、ボスがハンダごてを手にし、咥えタバコに鼻歌混じりで回路を組み上げていく姿には驚いた。「この人は何でこんなことまでできるの?」。
 ボクらは周辺を走り回ってアイスクリームの保冷庫を探した。これに水を張って冷やし、ポンプで汲み上げて冷やすのだと。オーバーフローした水はドレーンホースで戻す仕掛けになっている。何から何まで手作りの5つの恒温槽が完成し、試運転と温度調節の微調整が済んだのは宮城に発つ前日だった。この間のあれやこれやで、研究費の乏しいところで研究をするには、専門にしている分野以外の知識と工夫が必要であることを教えられた。
 調査区の設定に1日、ウスバサイシンの予備カウントに1日費やして、オフクロの「なんともはぁ、忙しいもんだなゃ」の声を背に我が家をあとにした。
 帰京して1週間後、池田さんが蓼科に飛んだ。室内実験用の卵の確保のためである。蓼科には池田さんの父親が勤めていた高校の山荘があり、その周辺でヒメギフが採れるというのである。翌日遅く、首尾よく卵が持ち帰られ、室内実験が一足先にスタートした。
 連休の終わり、三度ボクたちは加護坊に出向いた。ウスバサイシンは新葉を拡大し、カタクリの群落は花盛りだった。
 暖かな陽射しを浴びて、ウスバサイシンの葉っぱをめくりながら卵を数えた。腰をかがめてじわじわと移動しながらのカウントは辛いものがあった。半日かかって約800個、これからはこれらの経過観察が待っている。
 東京では孵化した幼虫での実験も始まった。与えた食草と食い残しの計量、糞や脱皮殻の乾燥と保管、そして幼虫の体重計測など…。成長量の算定のため、いわゆる同化量、呼吸量、不消化排出量、そして脱落量を求めるのである。ためた糞や脱皮殻、食い残しはカロリーメーターで燃やす。
 100頭の幼虫の世話は結構大変なものがあった。若令の頃はいいのだが、3令を過ぎると動きが速くなり、餌換えのとき、ちょっと油断した隙に集計用紙の裏とか実験器具の陰にまで移動してしまう。食う量が増えてきてからはとにかくめまぐるしい毎日だった。
 もっとも、野外での調査は結構楽だったようで、「東北周遊券」を利用していた池田さんは、カウントをしない日は十二湖などまで足を延ばしてカミキリを採り歩き、結構コレクションを充実させていた。東京へ戻ってきての第一声が、「トウキョウトラ採った」とかだったから…。
 6月になって、14℃の幼虫たちの成長が停滞(予想通り)したのを除いて室内実験はほぼ終わった。末頃には池田さんも帰ってきた。後はデータを整理するだけ…。そろそろお役御免かなと思っていたのだが、そうはならなかった。そっちのサポートもしろと言うのである。こっちは生態学素人である。何ができるんだろうか?
 Tさんが張り切った。「ハッシー!行くぞ」。週の半分は夕方から飲みに行き、飲みながらの講義である。さらに、当時ボスが邦訳を頼まれていて、院生の読書会で使っていたオダムの「基礎生態学(邦題)」のコピーを渡されて、「読んでみな」…。どんなときにも誘いを断らないボクを見てYさんは、「Tもいい子分ができたよな」とTさんをからかっていたが、ボクからすれば、飲ませてもらってその挙句に色々と教えてもらえるのだから、こんな有難い事はないと感じていたのだった。
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by luehdorf | 2007-12-22 02:30 | チョウなど | Trackback | Comments(7)
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Commented by nomusan at 2007-12-22 18:35 x
う~ん、面白い!一気に読みました。続編が楽しみだ(爆)。
Commented by カトカラおんつぁん at 2007-12-22 22:06 x
ヒメギフの話は、宮城に住む私にとっては身近な話題で、とても楽しく読ませてもらいました。大学の理学部の実験の様子も垣間見ることができて、興味深かったです。理系の方は、本当に器具作りから苦労されているんですね。私は文系なんで、本を読んで引用して終わりだったような記憶しかありません。斜面に区画を作るとか、食草の数をきっちり数えまくるとか。私も去年ヒメギフを200以上飼育したので、3齢以上の幼虫の食欲をまかなう大変さは身をもって体験しました。近くの山に2日に1回は、ウスバサイシンを取りに通っていました。池田先生の話もこの後も出てきそうで楽しみです。
Commented by nomusan at 2007-12-22 22:38 x
そうそう、私も学生時代ギフの飼育をやってまして、この時期だけは呑みに誘われても断るか、一度下宿に帰って幼虫さんのお世話(糞を捨てて新しい餌を与える)を済ませて呑みに行ってましたね(爆)。
Commented by luehdorf at 2007-12-22 23:28 x
nomusan様
ボチボチと…(爆)。
気長におつきあいください。
何せ、タイガーマスクのテーマソング、♪白いマットのジャングル…♪を、♪緑のマットのジャングルで~♪って変えて口ずさみながら、夜毎、チーだポンだと中国語と順列組合せにいそしんでいた学生だったのですから…。
Commented by luehdorf at 2007-12-22 23:34 x
カトカラおんつぁん様
この体験が、現在ベランダをパンダカンアオイでいっぱいにするようになった要因かも知れません。
餌不足に対する強迫観念というヤツですか?(爆)
ルードルフィアの春がもうすぐですね。
Commented by カトカラおんつぁん at 2007-12-23 15:45 x
緑のマットですか。懐かしい話題です。かく言う私めも連日連夜雀荘通いの日々を送っておりました。今なら考えられない話です。でも、バーチャルな仮想空間でなく、目の前の生身の人間相手の時間との対決で経験を積めたことは、今にも大きな影響を与えてくれたことと確信しています。幼稚園の砂場でなくても、人生の多くのことは「緑のマット」で学ベるのではないでしょうか。
Commented by luehdorf at 2007-12-24 01:04 x
カトカラおんつぁん様
「緑のマット」の上で人生を学ぶ…。同感です。
一時期、竹書房の「近代麻雀」の編集の手伝いをしてまして、荒ちゃんと灘さんの片八百長事件で編集長を辞めたOさんにかわいがられておりました。(実はここに就職することになってたのですが、パートナーの大反対で断念しました)
昔の話ですがいずれ色々と綴ってみようと思います。
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