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呑ん兵衛誕生!

1970年3月1日早朝、東北本線の小牛田駅上りホームに、見送りの母とともに特急「はつかり」を待っていた。あれやこれやと気遣う母をよそに、約5時間後には“トーキョー”に足を踏み入れるのだと言う高揚感に浸っていた。
ホームには人はまばらなのに、跨線橋からぞろぞろと一団が降りてきた。よ~く見るとその中心に“同期の星”のA川君がいる。きちんとネクタイを締め、スーツを着込んだ父親、普段着の母親、そして我が母校の事務職員をやっている彼のネェちゃん。最後にくっついていた巨体を見て驚いた。数学のKトちゃんではないか…。そういえば前年、職場結婚でネェちゃんを嫁にし、A川君とは義理の兄弟になったんだっけ…。
Kトちゃん、ボクに気づくと気まずそうに目を伏せた。あっさりと、「あっ! ハッシーも今日発つのか。頑張ってこいよ」とか言えばいいのになぁと思った。そしてこの日は卒業式。Kトちゃんも朝早く起きて義理の弟の見送りをし、それから式典に出るって、何て大変な1日を送らなきゃいけないんだと同情した。
因みに我が家は、親父が代理で卒業証書をもらいに行ってくれたのだが、帰省したときに出た話は、謝恩会でH君の父親と楽しく呑んだということだけで、卒業証書がどうなったかは知らない。40ン年たった今も見たという記憶がない。普段全く呑まない親父が、呑んで楽しく語らってきたということの意外性の方がインパクトが大きかったので…。
どうやら向こうは父親も同行しての受験のようで、一人で出向くボクは、何の根拠もないけれど合格できるような気がしてきた。
幸い乗る号車が違っていたから助かった。だって、年明けにタバコを覚えたものだから、車窓の景色を眺めながら一服するのに、近くに知り合いがいたら気詰まりだもの。
東京での宿は学寮だった。前年にクラブの先輩のSさんが、ボクの志望と同じところに入学し、暮れに帰郷なさった際、「試験のとき、何処に泊まったらいいですかネェ」と相談すると、「寮のオレの部屋でもいいぞ!」とおっしゃってくださった。何とラッキーなことか。宿代がタダ!
上野駅でSさんと落ち合い、山手線、東武東上線と乗り継いで寮に着いた。
旧陸軍の兵舎をそのまま学寮にしたとかで、敷地の西側にはおよそ5m四方のコンクリートを打ったところがあった。何と高射砲を据え付けた場所だと言うのである。
部屋は4人部屋、新学期から3年になるOさんと、後の3人はみなSさんと同学部の同期生。まぁそれも当然のことで、前年は、「安田講堂」の闘争の影響で東大と我が大学の体育以外が入試をやめちゃったんだから…。だから寮には体育の新2年生がわさわさといて、Sさんに連れられて挨拶に回ったのだがコレが大変だった。
4人部屋に4人いて、どこで寝ればいいんだろうと思っていたら、Sさんは同期の人たちが2人でいる部屋があり、そこで色々“つきあい”があるから大丈夫だと。まぁ、夕食を食べてのんびりした頃にその“つきあい”が分かった。夜に寝るヒマなんかあるわけがない。
半日を過ごし、いたく気に入ったもんだから、合格したらここに入ると決めた。
何せ4棟で300人余りの学生がいる。近くのお店にとってはビンボーな連中でもお客さんだ。定職屋が2軒、1軒はちょいとオシャレでいいものを出すところだった。それでも天ぷら定食¥120だから…。もう1軒は朝の5時からやっているという、何とも便利なところで、卵納豆定食¥65!
銭湯も寮生割引があったし、こういう所もあるんだよ、って連れて行かれたスナックも、リーズナブルなお値段だった(このときは「試験の前だから…」って呑ませてもらえなかった)。
3日に始まった学科試験が5日に終わり、やれやれと思って寮に帰ると、H島さんが、「おい!ハッシー君、ちょいと買い物に行くよ」と…。二つ返事でついていくと、メモ用紙を見ながら日本酒だレッドだと買い、荷物をこちらに渡してくる。「H島さん、こんなに呑むんですか?」と尋ねると、「いや、君の『合格祝い』だって…」。「ハァ?」である。翌日から2日間、まだ実技試験が残っているのに…。
つまみだなんだも買いこんで戻ると、部屋長のOさんも帰ってきていた。「Sから聞いてるから…。君は絶対大丈夫だって。だからこれからお祝いね」。実は身体も立派で性格も豪快なOさん、ボクはてっきり体育だと思っていたのだが、何と教育、しかも障害をもつ子どもを相手にする「特殊教育」が専攻なのだと…。
夕刻になると、部屋にはぞろぞろと体育の先輩方がやってきた。口々に「実技?んなモン何てことないヨ。学科で終わっちゃってるんだから。今日呑んで、少しリラックスした方がいいよ」とおっしゃる。ならばなるようになれである。有難く頂戴することにした。
最初に口にしたのはレッドのストレート(チェイサーなし)。いがらっぽい感じがしたので、薬缶の水を入れようとしたら、柔道部のMさんに、「ウィスキーは生のまま呑むもんじゃ」と…。お酒の燗は一升瓶から電気ポットにゴボゴボ入れて、沸騰寸前にコードを抜く。湯のみ茶碗に注がれた熱燗は鼻にツ~ンとアルコールが…。
でも慣れいや酔いは恐ろしい。徐々に手酌でやるようになってしまった。体操部のNさんが、「得意技をやらんか」と振ってきたものだから、調子に乗って床にうつぶせになり、そこから勢いをつけずに倒立に上げるという、当時の最高級難度(Cですな)の技をやったら、「お前、力だけなら○さんに勝てる」と、酔ってるとはいえ、オリンピックチャンピオンの名前を出してきた。
近隣の部屋にはさぞかし迷惑なことだったろうが、大騒ぎはどんどんエスカレートしていった。途中、呑むのは初めてでペースを知らないボクでも悪酔いの兆候を感じた。「トイレ行ってきます」と中座して廊下に出ると、床が歪んで見える。何とかトイレにたどり着き、胃のひっくり返るキツ~イ初体験。すっきりして洗面所に行き、冷水で顔を洗ってうがいをするとずいぶんと楽になった。帰りは廊下の歪みも小さくなっていた。
戻って湯飲みに残っていた酒を空けた。何せ注がれた酒は全部呑まなきゃいけないと教えられたのだから…。そしてまたポットから酒を注ごうとすると、正面で椅子に座っていたTさんが、「お前大丈夫か?今部出してきたばかりだろ?」と…。「えっ、分かります?」と応えると、「だって顔色が悪いんだもん」。酔っ払いの状態が顔色で分かるということを教えられた。「すっきりしたからもう少し…」と呑み始めたら、「コイツ、ホントに呑ん兵衛になるよ」と評された。
日付が変わる頃、「おぉい、オレたちは寿司屋(1人前¥300のところが、線路の向こうにあった)で呑み直すから、君は明日に備えて休みなさい」とOさんが言う。楽しさにも酔っていて「ボクも行っちゃだめですか?」と言うと、Sさんに「一応、明日も試験に行かなきゃなんないんだから寝ろ!」と厳命され、ベッドに押し込まれた。
そこから朝どうやって起きたのかまでが記憶の“ミッシングリンク”になっている。とにかく試験場までは行った。ひどい二日酔いで頭はガンガンするし、胸はムカムカ。運動着に着替えてグラウンドに出ても、まともに足が地に着いていない。
最初はハイ・ジャンプだった。砂場の前に受験番号順に整列させられたとき、自分の周囲にちょいと空間があった。そしてバーを見ると2本に見える。後ろの方に同じ高校のJがいたので手招きし、やってきたところで「バーが2本に見えるんだよな」と言うと、「お前、昨日何やったの?やたら酒臭いんだけど…」。酒に酔うと、呑んだ日だけでなく翌日も辺りに迷惑をかけるのだということを学んだ。事情は説明したが、2本に見えるバーについては説明してくれなかった。高い方を跳べばいいや、って開き直り、2回目で140cmまでクリアして後はパスした。
その後は砲丸投げを登録していたのだが、1種目でいいってことで終わった。球技も同様で、2種目登録したうちの1種目だけやればいいってことで、先輩たちが言っていた「実技は形式」が裏づけられて気分が楽になった。
昼食を抜き、体育館に行って1時間ほど器械に触って汗をかいたらしっかり酔いは抜けた。気分が良くなって寮に戻り、Sさんに、「今日は呑まないんですか?」って聞いたら、「お前、バカ!味しめやがって」と叱られた。
翌々日、田舎に戻る前に、皆さんにお世話になった挨拶をすると、「今度は入学祝いをやってやるからな」と苦笑交じりで言われたものだった。
発表前の“合格祝い”を企画なさったOさん、今は北関東のI大学の教授としてご活躍。顔色で心配してくださったTさんは、全国高校校長会の会長までおやりになって昨年定年。ウィスキーは割るもんじゃないとおっしゃったMさん、故郷広島で教鞭をとり、広島県高体連の柔道部の委員長、そして障害をもつ子どもたちへの柔道の指導と力を尽くされていたのだが、3年ほど前に鬼籍に入られた。我が先輩のSさん、大学を終えてから鍼灸を志し、高田馬場で開業なさっている。
皆さん、40年以上前に、受験生に酒を教え、とんでもない呑ん兵衛を作り上げてしまった出来事を覚えてらっしゃるだろうか?当然、忘れてんだろうなぁ。
by luehdorf | 2012-11-15 01:50 | 酔っ払い
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