「ほっ」と。キャンペーン

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その後

 池田さんの仕事が一段落したのを機に、ボスが「カミキリを採りに行こう」と号令をかけた。当時注目され始めた桧枝岐へだという。しばらく虫採りをしていなかったから、ボクは一も二もなく、「行きます」と言った。しゃくりとルッキングだというから長竿さえあればいい。
 出発のとき、車は3台なのだが、みなボスとYさんの車に行き、Tさんの車へ乗るという人がいない。Tさんは「ハッシー!オレの車に来いヨ」と言う。Yさんと池田さんが「おぉ、Tの車の方がいいだろな」とニヤニヤしながら…。訳は後で分かる。
 まだ東北道はできていない。R4を北上し、宇都宮、今市経由で栃木・福島県境の中山峠を越えるルートである。県境付近はダートだった。
 R4から宇都宮に入ってすぐに、ボクらが遅れ始めた。出発するときにロードマップを渡され、「分岐の指示をしろよな」ってことだったので、こちらは市街地に入るとマップと道路の表示とを見るのに忙しい。ある交差点にかかったとき、「次を左です」と言ってマップに眼を落とすと、体が左に振られる。「いま右に曲がりませんでした?」と言うと、「左だよ」と言ってハンドルにかかっている右手をかざす。愕然とした。「それ右ですよ!」、「あっ!」でUターン。Tさんはサウスポーで右と左の認識がいいかげんだったのだ。恐らく「箸を持つほうが右、茶碗が左」で仕込まれたのだろう。
 こんなことが2、3回続けばどうやったって遅れる。Yさんと池田さんの「ニヤニヤ」の意味が分かった。一計を案じたボクは、右のときには目前に手を出して「そっちです」、左のときには「こっちです」と言うことにした。何とか現地にたどり着いたとき、先行していた人たちはタバコを吸いながら笑い転げていた。落ち着いていれば大丈夫なのだが、とっさのときに間違えてしまうのだとか…。
 宿は湯の花温泉。ここをベースに採り歩くのだという。製材所脇の貯木場でのルッキングは、チョウチョ採りに比べれば楽な採集であった。木の上を這うヤツを手づかみにしたりネットに落とし込んだり…。Tさんはボクと反対側で、「おいハッシー!、よく見てろよ。翔んで来るんだから…」。
 1つ採るたびにTさんのもとへ行き、「これ何ですか?」。自分の持っているヤツだと一瞥してあっさりと答えるのだが、持っていないヤツだったりすると、「何でお前にこんなものが採れるんだよぉ~」っと叫ぶ。それが面白いからこっちも必死になった。だってカミキリは初めてでも、ネットを振るのはTさんよりずっと長くやってるのだから…。
 夕方遅くまで採り歩いて宿に戻り、温泉に浸かると食膳を前に当然のごとく飲み会である。ボクは「腹が減っては戦ができない」タイプなので、ご飯を食べながら酒を飲んでいた。するとYさんが、「お前、よくメシを食いながら酒を飲めるなぁ。こういうときはおかずを肴にして酒飲んで、締めにご飯と味噌汁ってもんだョ」と言う。「でも、腹が減ってたら酒もうまくないですよ」と答えると、池田さんが「こうすりゃ両方楽しめるだろ」とご飯の茶碗に酒を注いだ。「どっちも米ですよね」と「酒漬け」をかっこんだら、「こいつホントの酒飲みだ…」とYさんがあきれていた。
 虫採り、酒、温泉と最高のものが3つパックになった2泊3日はとても楽しいものだった。もっともボクのカミキリの標本の9割方はこのときの採集品である。初めてでいわばメッカのようなところへ行き、簡単にさくさくと採れるものだから、以後カミキリ採りを「楽なもの」となめてしまったからだ。
 東京へ戻ると、池田さんは論文の執筆、ボクは室内実験のデータ整理が始まった。
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by luehdorf | 2007-12-24 22:58 | チョウなど | Trackback | Comments(12)

そして…

 理学部ダイバー(モグリということですな)を決めて3日ほど後、研究室に入っていくと、池田さんが暗い顔でYさんと話していた。何となしに居心地の悪さを感じて窓際の椅子に腰をかけ、タバコをくわえた。
 Yさんが、「よぉ、ハッシー!、どこか人が入ってこないギフの産地を知らないか?」と聞いてきた。前年春、多摩丘陵の御殿峠へ、ひょっとするといるかも…と淡い期待を抱いて出かけていって、そんなに甘いもんじゃないということを知らされていたボクには心当たりはなかった。
 訳を聞くと、池田さんが修論の野外実験のフィールドにしようと思っていた場所が「月刊○し」に載ってしまい、採り屋が跋扈していて調査などできないと言うのである。研究の内容を聞いてみると、ヒメギフでもできそうだから、「ヒメギフじゃダメなんですか?」と問うと、「ヒメギフでもいいけど、いい場所がねぇだろう?」と言う。ちょっとためらったが、「宮城なら絶対に人の入らない所がありますよ」と言ってみた。何せ新幹線の通っていない時代、上野から5時間以上もかかるのだから、この話に乗ってくるとは思わなかった。
 池田さんが即座に、「いいよ。行ってみよう」と答えた。切羽詰っていて選択の余地などなかったのである。早速週末に加護坊山(当時田尻町、現大崎市)へ夜行で出向いた。
 早朝に我が家に着き、朝飯を食べてから自転車を連ねて出かけた。2、3ヶ所のポイントを周るうちに池田さんがふと、「ここに通うか…」と漏らした。最終的に植林後5、6年のスギの二次林の西向き斜面に決まった。ここはボクとSが初めてヒメギフを採った翌年に見つけたポイントで、東京に出るまで2年間通いつめた場所である。4月の頭、足元のウスバサイシンの新芽はまだ固かった。
 家に戻り、宿借りの協力を我が家に頼むと、親父もオフクロもボクの部屋が空いているので自由に使っていいと言う。その夜の上りの夜行で東京にトンボ返りして学校に行き、ボスに報告、そして調査区設定の準備にかかった。50m×60mのエリアに1辺5mの方形区を作っていくというのである。全部で120区画…。ついでにウスバサイシンの株数のカウントも済ませたいとのことなので、再訪は翌週に決まった。
 同時に室内実験の装置の作製にかからねばならないのだが、これはボスが音頭を取った。
 恒温槽の温度コントロールは、ガラス管に入れた水銀の体積変化を白金線で捉え、ヒーター加熱とクーラーからの冷水注入で行うのだという。手製の回路図を前に、ボスがハンダごてを手にし、咥えタバコに鼻歌混じりで回路を組み上げていく姿には驚いた。「この人は何でこんなことまでできるの?」。
 ボクらは周辺を走り回ってアイスクリームの保冷庫を探した。これに水を張って冷やし、ポンプで汲み上げて冷やすのだと。オーバーフローした水はドレーンホースで戻す仕掛けになっている。何から何まで手作りの5つの恒温槽が完成し、試運転と温度調節の微調整が済んだのは宮城に発つ前日だった。この間のあれやこれやで、研究費の乏しいところで研究をするには、専門にしている分野以外の知識と工夫が必要であることを教えられた。
 調査区の設定に1日、ウスバサイシンの予備カウントに1日費やして、オフクロの「なんともはぁ、忙しいもんだなゃ」の声を背に我が家をあとにした。
 帰京して1週間後、池田さんが蓼科に飛んだ。室内実験用の卵の確保のためである。蓼科には池田さんの父親が勤めていた高校の山荘があり、その周辺でヒメギフが採れるというのである。翌日遅く、首尾よく卵が持ち帰られ、室内実験が一足先にスタートした。
 連休の終わり、三度ボクたちは加護坊に出向いた。ウスバサイシンは新葉を拡大し、カタクリの群落は花盛りだった。
 暖かな陽射しを浴びて、ウスバサイシンの葉っぱをめくりながら卵を数えた。腰をかがめてじわじわと移動しながらのカウントは辛いものがあった。半日かかって約800個、これからはこれらの経過観察が待っている。
 東京では孵化した幼虫での実験も始まった。与えた食草と食い残しの計量、糞や脱皮殻の乾燥と保管、そして幼虫の体重計測など…。成長量の算定のため、いわゆる同化量、呼吸量、不消化排出量、そして脱落量を求めるのである。ためた糞や脱皮殻、食い残しはカロリーメーターで燃やす。
 100頭の幼虫の世話は結構大変なものがあった。若令の頃はいいのだが、3令を過ぎると動きが速くなり、餌換えのとき、ちょっと油断した隙に集計用紙の裏とか実験器具の陰にまで移動してしまう。食う量が増えてきてからはとにかくめまぐるしい毎日だった。
 もっとも、野外での調査は結構楽だったようで、「東北周遊券」を利用していた池田さんは、カウントをしない日は十二湖などまで足を延ばしてカミキリを採り歩き、結構コレクションを充実させていた。東京へ戻ってきての第一声が、「トウキョウトラ採った」とかだったから…。
 6月になって、14℃の幼虫たちの成長が停滞(予想通り)したのを除いて室内実験はほぼ終わった。末頃には池田さんも帰ってきた。後はデータを整理するだけ…。そろそろお役御免かなと思っていたのだが、そうはならなかった。そっちのサポートもしろと言うのである。こっちは生態学素人である。何ができるんだろうか?
 Tさんが張り切った。「ハッシー!行くぞ」。週の半分は夕方から飲みに行き、飲みながらの講義である。さらに、当時ボスが邦訳を頼まれていて、院生の読書会で使っていたオダムの「基礎生態学(邦題)」のコピーを渡されて、「読んでみな」…。どんなときにも誘いを断らないボクを見てYさんは、「Tもいい子分ができたよな」とTさんをからかっていたが、ボクからすれば、飲ませてもらってその挙句に色々と教えてもらえるのだから、こんな有難い事はないと感じていたのだった。
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by luehdorf | 2007-12-22 02:30 | チョウなど | Trackback | Comments(7)

きっかけ

 ’72年3月、啓蟄を過ぎて暖かくなった陽気に誘われ、穴から這い出る虫のような思いでサークルの部室に出向いた。
 体操を辞めて1年余り、家庭教師のバイトに行く以外は、学寮に引きこもって麻雀ばかりしていたのだった。
 タバコを吸いながら後輩たちの書き込みのあるノートをめくっていると、いきなり黒幕のYさんが現れた。前年初夏の、学祭での展示後の打ち上げで飲んで以来だった。
 「お前どうしてたの?」と尋ねるYさんに現況を話すと、「もったいないなぁ、ウチの研究室の仕事を手伝えよ」と「動物生態」の研究室に引っ張っていかれた。入試中止の影響で新4年生がいないため、研究室には学部生がゼロだった。
 学生控え室には2人の院生がいた。一人は今をときめく(?)「構造主義生物学」の旗手、池田清彦さん、もう一人がその後ボクをダシにして飲み歩くTさん(研究室に遅れてくる言い訳が、「ハッシー!がやたら飲んだもんで…」)だった。
 Yさんが「池田、T、こいつが『体育のチョウ屋』」と言うと、池田さんが、「君がそうなのかぁ、聞いてるよ。酔っ払っちゃそこらで宙返りすんだって?」。
 確かにそうだった。ボクがサークルの入会に行ったとき、部室にはYさんとカトカラ屋のIさん、雑虫屋のKさんがいて、雌伏の1年が過ぎ、やっと入会しようとしている第1号が、理学部でも農学部でもない体育学部生だというのだから面食らっていたのだった。でも夏過ぎの飲み会で、「陸中のチョウアカを鬼採りして…」とか「早池峰のベニは展翅板の数を考えて30で…」とか吹きまくり、挙句には横断歩道をロンダード→バック宙で渡ったりしたもんだから、初めに抱いた懸念も何のそので、「面白いヤツ」となってしまった経緯があった。
 Tさんは、「体操やってんなら木登りは楽々だろうし、力もありそうだから『材運び』にもいいじゃん」と言う。そう、当時、生態の研究室で大ブームだった「カミキリ」に引きずり込もうという作戦なのである。「チョウチョは時代遅れ」説を左右から吹き込まれながら小一時間経つと、M師が現れた。Yさんが、「あっ、先生、こいつが例のヤツです。使えそうなんで連れて来ました」。長身痩躯のM師は、「…君ね。今ここは学部生がいないから、Y君や池田君なんかの仕事の手伝いをやってもらえると有難いんだよね」と…。
 いつの間にか理学部の「モグリ」になることが決まった。
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by luehdorf | 2007-12-13 13:05 | チョウなど | Trackback | Comments(2)