「ほっ」と。キャンペーン

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ゴキブリの味方です…

 4、5日前、書棚の脇に気配を感じたので目をやると、「アレッ!見つかっちゃった」っていう雰囲気でゴキ君が静止していた。引越し以来の初対面である。リビングにいるパートナーに対応の手段を求めると、「捕殺」であるという。チョウチョ採りのために100円ショップでしこたま買った密閉容器を使ってまず「生け捕り」。「ホラ、こんなに『カッコ』いいんだよ!」とプレゼンテーションしたのだが、あえなく却下され、「家庭用洗剤の水溶液」による「溺殺処分」となってしまった。ずいぶんと立派な完品だったので、展足なんかしてみようと思ったのだが、彼女のいるところでは無理な話で泣く泣く投棄した。
 前の住まいを引っ越す直前に、クロゴキの大きなのがいたので、行動予測して「ゴキホイ」を仕掛け、「『カッコいい』のが入るはずだよ」と言った日の夜、帰宅すると、「ホント!『カッコいい』のが…」って喜んでいたので、いくらか「ゴキ・アレルギー」がなくなったのかと思っていたのだが…。
 「不快昆虫」とか言うのだったろうか。何でここまで彼らは嫌われなければならないんだろうか? 記憶が確かならば、1960年の5月か6月かに、朝日新聞の社会面に「ゴキブリがポリオ(小児麻痺)のウィルスを媒介?」という記事が載った。当時、岩手の一関ではゴキブリがいなかったもんだから、「どんなおっかないムシなんだろう?」と想像をたくましくしていた。翌年の夏、一家4人でスイカを食べていると畳の上を黒いムシが走った。弟が「父ちゃんこれ何?」って言うと、親父は「これはゴキブリ、アブラムシともいうな…」と教えてくれた。得体の知れないものを怖がる母親がどんな対応をしたかは忘れてしまったが、「へぇ~、こんなもんか…」とちょっと拍子抜けしたもんだった。ただそれ以降の我が家の対応は、軽く叩いて半殺しにし、紙に包んでの焼死処分が慣例になっていた。それでもボクは、「わっ!ゴキブリ!」みたいな対応ができなかった。彼らの仕草に何となく愛嬌を覚えてしまっていたから…。
 ’70年に上京し、6年間住んだ大学の寮は、旧陸軍の兵舎の転用とかで老朽化していて、やたらと色んなムシが出た。ゴキについては同室の仲間なんかが「汚い…」って言ってるのを見て、「汚いのか?」と思っていた。後年、ちょっとしたイタズラ心から、インスタント・コーヒーの空き瓶で飼育してみたが、テカテカした体は汚れがつきにくそうに見えたし、あのブラシのような脚を使っていつも触角や翅をクリーニングする姿は、巷間広まっているゴキのイメージとそぐわないものだった。
 ちょっと弁護したいのだが、「汚い」と言われるゴキが原因となった食中毒とか感染症の事例ってホントにあるのだろうか? 大学時代に某消毒会社のバイトに行き、噴霧器を背負ってスプレーイングをしたことがある。中華料理店の厨房のガス台上にあるダクトに散布したら、まるで褐色の雪が降るようにチャバネが落こってきた。床に落ちた彼らが逃げ場を求めて走り回る光景は壮観だった。でもその料理店で食中毒などの事故が起きたという話は聞いたことがない。確か5階建てのオフィスビルだったが、オフィスに使用している所だって料理屋ほどではないにしろ、わさわさといた。特に、給湯室には…。この経験が、「ゴキはホントに悪者?」という観点に立つ端著になっている。
 まぁ、イメージが作り上げられているのだから、それを一挙にくつがえすのは無理としても、ちょっとはよく「見て」みようと言いたくなるのだ。日本全土には50種を超えるゴキが棲むのだと聞く、そのうちわれわれとの共生(?)関係にあるのは10種程度だろう。あとは森林にひっそりと棲んで生態系の「分解者」としての任務についている連中だから、そこを汲んでやりたい。
 暑さが苦手だからまず行く事はないと思うが、西表島に棲む「ルリゴキブリ」、これだけは採ってみたいな。
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by luehdorf | 2007-06-30 11:10 | チョウなど | Trackback | Comments(4)

リュウグウヒメイトトンボ?

 1971年、龍泉洞から帰って実家でのんびりとしていた夕方、縁側でタバコを吸いながら、家の前の水路脇に生えるハンノキを見上げ、せわしなく翔び回るミドリシジミに、「何でA型のメスがいないの?」…なんて話しかけていた。
 犬小屋から甘え鳴きが聞こえたので門の方に目をやると、ナップサックを担ぎ、竿を持ったSが入ってきた。
 「よぉ、久し振り!」と声をかけると、「あれ?けって(帰って)きてだの?」。途端にボクも引き込まれ、「んだ、おどどい(一昨日)まで龍泉洞さいだんだっちゃ…」、「なじょ(どう)だったんだべ」、「いっつもどおりだっちゃ、まず立ったまんまではなんだがら、ヘ(入)ったらいっちゃ」。ボクは灰皿を持って立ち上がった。
 「んではちょっと上がらせでもらうが…」。Sは玄関に回って居間へ入ってきた。「今日はどごの帰りなの?」と聞くと、「こごのところ、トンボが面白くてねや…」と言いながらフッと笑った。「何がいい話でもあんの?」と問うと、ナップサックから三角缶を取り出し、「こいづで岩沼さ通ってんだよね」と三角紙を差し出した。イトトンボが入っていた。
 「珍しいんだべが?」、「ニューみでぇなんだよね」…。
 ガツンと言う衝撃が走った。「何すや?」。再び問うボクに、三角紙を開いたSは、「背中に4つの点があるっちゃ。こんなのいねんだよね」。弱々しく翔び出した2頭のトンボは水平に走って障子の桟に止まった。背部の四つ星がはっきりと認められた。
 「どうすんのっさ?」、「いまGさんが調べてんだよね」。ちょっといやな予感がした。
 「いづ(いつ)採ったの?」、「今月(7月)の6日だったがな?」、「なして今まで分がんねがったんだべ?」、「河口のヨシ原みでぇなどこさいで、表の方さ出でこねぇんだよね。んだがら見つかんねがったみだいなんだよね」、「ニューだってことが分かったら、和名なんかどうすんの?」、「海さ近いとこで採れっから、『リュウグウヒメイトトンボ』なんてのを考えでんだけども…」、「いがった(良かった)ねや」、……。
 ムシ屋の最大の夢である新種の発見が、こんな身近であるなんてことは想定外のことだったから、Sの快挙は自分のことのように嬉しかった。ましてや5年前、この世界に引きずり込んだのがボクだったのだから…。この事の2年前、龍泉洞で出会い、2泊3日をともにしたKは、後年、Sを評して、「アカ抜けしないけどセンスのあるムシ屋」と妙な感想を漏らしていた。
 その後はボクが帰京するまで、ヤツは岩沼通い、ボクは後輩達のコーチのための母校通いとすれ違ってしまい、話をすることもなく実家を離れた。
 9月になり、朝日新聞に「新種のトンボ発見」の記事が載った。それを見たボクは驚愕した。あのトンボが「ヒヌマイトトンボ」という名で載っていたからである。仙台の方から漏れ伝わってきたことは、GというS達の先輩が一人で何とかしようとしている間にプライオリティを奪われてしまったようだということだった。「やっぱり…」、高校時代に一度だけ会った、G氏を思い出していた。それは初めてあのトンボを見たときに名前が出た瞬間に予感したものを裏づける印象だったから…。
 Sにどのような言葉をかけてよいものか分からず、一葉の葉書を出すことすらしなかった。
 翌年、彼は実家で中学時代からの目標だった養豚を始めた。母親同士も同級生だったものだから、よく行き来をしていたみたいで、オフクロからは、「Sちゃん、随分頑張ってんだよ」と聞かされた。ネットは捨てたと言うことだった。
 結婚し、仕事が忙しくなって帰郷も1泊してトンボ帰りなんてことが続いて10年、オヤジが患ったもんだから見舞いに行った。ふと、思い立ってSを訪ねると、しっかりと農家の親父になったヤツが出てきた。トンボのことは何も話さず、近況を語り合った。ボクがまだネットを振ってることを知ると、「まだ子供が小さいから…。おっきくなったらまたチョウチョかな?」と笑った。高校1年のときに初めて採ったヒメギフ1箱は大事にとってあると言う。いまや幻のヒメギフだ。
 「リュウグウヒメイトトンボ」、それはボクとSの思い出の中にだけ存在する新種のトンボになった。
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by luehdorf | 2007-06-26 23:58 | チョウなど | Trackback | Comments(3)

追憶…

 かつて「TSU-I-SO」に何度か駄文を載せてもらった。ワープロ原稿で、バックアップをとっていたから大丈夫…なんて思っていたら、プリンターがパンク。ワープロを捨ててPCにシフトした。そのとき、フロッピーの読み取りソフトも導入したのだが、どうもウィルス除去ソフトとの相性がよくないらしく、うまく働いてくれない。そのためにいまだに過去の文章を引っ張り出せないでいる。仕方がないので記憶を頼りに書き直してみることにした。デッシー君とその息子ハム君と一緒に入笠へ行ったとき、ボクにここを教えてくれた亡きMさんのことを思い出したからである。

 窓から射し込む小春日の中で、ローストのきついコーヒーをすすりタバコをくゆらす。仕事の合間のまさに「至福のとき」である。しかし、届いたばかりの一葉の葉書に冷水を浴びせられたような思いにさせられた。薄墨の縁のある葉書は、Mさんの死と喪中欠礼を知らせるものだった。片隅に奥様の手で、「…逝きました。蝶を遺して」と…。
 1971年、岩手県の龍泉洞。通い始めて4年目でちょっとは訳知りの気でいた。洞の前の東屋で野宿した2日目の午後、午前中に宇霊羅山でカシワ食いのゼフを結構採って昼飯を済ませ、覚えたばかりのタバコをふかしながら、「ダイセンは何でsignataばっかりで
quercivoraが採れないんだろうな…」なんてことをブツブツと呟いていた。洞の入り口の方を見るでもなく眺めていると、橋を渡って一人の中年の男性がやって来た。そしてボクに、「チョウセンアカは採れますかな?」とニッコリと笑いながら声をかけてきた。独り言に飽きていたボクは、「川沿いのトネリコを叩くと結構飛び出すと思いますけど…」と答えた。「いやぁ、有難う!」、男性は長竿を取り出して上流の方へ向かった。
 3時過ぎ、下流側から戻って行くと、東屋でタバコを咥えたさっきの男性が手招きしている。小走りに駆け寄ると、「採れましたよ。時期的にダメかと思ったけど、完全品が3頭ばかりありました」と言う。「良かったです。お教えした甲斐がありました」と答えると、「今日はもうお帰りになるのかな?」と問う。「いえ、夕方のバスで田野畑へ行って泊まります」と言うと、「私もご一緒しては迷惑かな?」と聞かれた。こちらは実家に戻るまでチョウチョ採りばかりするだけだから拒む理由もない。「あぁ、どうぞ」ということで珍妙な二人旅が始まった。
 6時前、喜久屋旅館に着いた。当主のおバァちゃんに無沙汰の挨拶をし、二階の部屋に上がった。荷物を整理して着替えながら、まだ名乗り合っていない事に気づいた。「何て呼べばいいんだろう…」。若輩から名乗るのが順序であろうと、「ボク、ハッシーって言います。○×大学の体育の2年です」と言うと、「アハッ!こりゃ失礼、私はMで中野で不動産屋をやってます」と返してくれた。
 夕食の膳が出てすぐ、Mさんが右手を口の前でクイッとやった。頷いてしまったのが地獄への序章だった。ものすごいピッチで徳利が横になっていく。こちらは体育学部だから、年長の方の手を煩わせるわけにはいかないと、ふらつく足で一階と二階を行き来した。覚えているのは何度目かに下りたとき、一階のテレビに映っていた、オールスターゲームでの「江夏の9者連続三振」で、9人目の、阪急加藤英司のバットがクルっと回った瞬間だった。
 翌日は当然猛烈な二日酔い。しかしMさんときたら酒はまるで潤滑油だとばかりに絶好調。案内する先々でメタリックグリーンをネットし、それらを「ドル」と数える。10時過ぎには「やぁ、40ドルいきました!」。まだ1ドルが360円の固定相場の時代であるから、この日Mさんはどれだけ稼いだ事やら…。そして夜はまた喜久屋での「祝杯」という名目の酔乱…。
 出会って3日目の朝、岩泉に戻るバスの中で、「東京へはいつ帰られるのかな?」と問われた。「8月の10日頃にはと思ってます」と答えると、「中旬に3日ほど付き合ってください。今回のお礼がしたい」と言う。恐縮して断ると、「いや、東京の住まいの電話を…」と譲らない。寮の電話をメモして渡した。
 東京に戻った日の夕刻、寮内放送が響いた。「体育2年のハッシーさん、電話です」。「お電話」なら女性から、「電話」なら男性からの暗号が隠れている。Mさんの言を思い出して電話室に走った。急いでとった受話器から、「いやぁ、先日は有難うございました。私が是非案内したい所があるので、14日の夜に新宿駅の西口に採集に行く格好で来て下さい」とMさんの声が響いた。「は、はい、分かりました」とだけ答え、バイト募集の掲示板を見ると、「左官手伝い、3日間、1日5000円」というのがあった。寮委員に訪ねると未決であるという。すぐに募集受付の用紙を受け取って電話した。即決だった。翌朝の7時半に寮のすぐ裏のアパートに出向けば拾ってくれると言う。とにかく3日間、セメント袋を担ぎ、砂利をふるって捏ねた。結構な重労働だった。棟梁は「3日もつとは思わなかったョ。S君(同学年である)なんか半日で音を上げたからね」とバイト料に色をつけてくれた。足場板の端っこに乗ってしまい、三階から落ちて二階との間の支柱にしがみついて驚かれたのもこのときだ。地面に落ちた足場板の音に棟梁は顔色を変えて飛び出してきたが、支柱につかまったボクが「すみません!下は大丈夫ですか?」って言うのを聞いて、「そっちを心配したんだ」って怒鳴られ、後で「やっぱり体操やってるってのは身軽なんだな?」って感心されたっけ…。
 もらったばかりのバイト料を手に新宿駅へ行くと、中央線富士見までの切符を手渡された。「あの~、お金は?」と言うと、「私がお礼をするのだから気にすることはないんです」と言われ、「お腹がすいてるでしょう?何か食べますか?それとも…」と右手をクイッ。「ボクが行きます」と売店に駆け出し、弁当とビールと酒を買ってくると、「あなたはお客様です」とお金を渡された。そして発車前からこの前と同じ状況になった。
 早朝、富士見駅に着くと、駅前にはラジオ体操に集まった子ども達がいた。バスの発車までにまだ時間があることを確認すると、「子ども達に体操を教えてきなさい」と言われ、まだアルコールの残滓が残ったまま、壇に立たされて体操をした。
 マナスル山荘は初代がまだお元気だった。受付の上の壁の標本箱にはキベリタテハやコヒオドシそしてベニヒカゲなどが並んでいた。キベリの縁はまだ白くなっていなかった。荷物を置くと、照りを増した夏の陽射しの中を南沢辺りまで下った。初めて見るアサギマダラに興奮した。黒く速い影はコヒオドシ、止まっては逃げるのを3回目でネットに入れた。南沢の斜面からはベニヒカゲが舞い降りてくる。焼石や早池峰と違いちょっと大きかった。汗をかきアルコールが抜ける頃、入笠のファンになった。
 その後も折に触れては誘いの電話があり、飲みに連れて行ってもらった。「うちはね息子がまだ小さいんですよ。早くこうして息子と飲んでみたいな…」。下北沢の居酒屋でだった。
 年賀状に「結婚しました」と記すと、「連れて飲みに来なさい」と返信があった。都合が合わずにぐずぐずしていたら会わせる事ができなくなってしまった。
 マナスル山荘の風呂場で背中を流してあげていると、ひょいと振り向いて視線を下げ、「これなら大丈夫だ」と悪戯っぽく笑った目が忘れられない。合掌。
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by luehdorf | 2007-06-09 23:52 | チョウなど | Trackback | Comments(4)