カテゴリ:読書( 3 )

原点回帰…

高1の生物の授業、細胞分裂の際のDNA複製について、「これは新しい指導要領で入ってきたことなんだけど…」と、染色体中のDNAの“二重らせん”構造、そしてDNA塩基であるアデニンとチミン、グアニンとシトシンの“相補的結合”による複製の仕組みについて教えられた。
そのときは、「へえぇ~、うまくできてるもんだ」と感じたのだが、分子レベルで生物を見るということに違和感があり、深く突っ込もうとしなかった。だって、「生物の最小単位は細胞」と習ったのに、分子ってのはそれより小さくて非生命体なのだから…。
この傾向は「動物生態」の研究室に潜ったことでさらに強くなった。生態学は分子生物とは逆にマクロに見るもので、種すら無視して生態系中の役割でカテゴライズする。たとえば生産者、消費者っていうように…。これがとっても性に合った。だから「分子生物」とは距離を置いてきた。
10年とちょい前、仕事の関係で「高校生物」と向き合う必要が生じた。生理や生態はいい。しかし、発生や分子は…。
まず、発生。高校のときもそうだったのだが、なぜにウニの発生を拡大した図で細々と追わなければならないのかが解せなかった。だから「ウニは『発生』の過程よりも成体の精巣や卵巣の方が重要だ」とか「ウニの採れない長野県や山梨県の連中には入試で不利だ」とか言い続けていた。
分子については上述したように、「分子は生物じゃない」と…。
しかし飯のためにはそんなことは言ってはいられない。何か興味を惹くものがないかと考えつつ自学を始めた。少しずつ目を開かされることが生じてきた。
発生ではシュペーマンなどの技術についてだった。イモリの受精卵での移植では、あんな小さいものの特定の部分を切り取って別の卵へ植えるという作業がどれだけ困難なものなのか。高校時代、テキストなどには大きく示されているから気づかなかったが、改めて見てみると凄いことをやってたんだと感じさせられた。
分子については、かの福岡伸一大先生が「生物学史上最もエレガントな実験」と称する、メセルソンとスタールの実験手法をなぞったときだった。
DNA複製に関しては、「二重らせんがほどけて一本鎖になり、分かれたそれぞれが鋳型となって新しい二本鎖ができる」という、いわゆる“半保存的複製”が行われているのは今や常識だ。しかしワトソンとクリックが“二重らせん”の仮説を発表した後、複製の仕組みに関しては、二本鎖がそのままコピー元となって新しい二本鎖が生じる「保存的複製」やDNAがランダムに切れてそれが複製される「分散的複製」ってのだって考えられるよね、っていうことから、「半保存的複製」が行われていることの証明が必要になったのだ。これを何ともすばらしい方法で解決したのがメセルソンとスタールで、1958年に窒素の同位体を使ってあっさりと証明してしまった。神戸大学の入試問題(確か’00年)にこの実験の手順をなぞる設問があり、それを解いていて「これすごい!」と感じ、分子生物にハマることになってしまった。
とにかくこの2人がなぜノーベル賞をもらえなかったのかが疑問に思えるくらい“カッコいい”ものなのである。
以降、’70頃からこっちの分子生物の流れを必死で追いかけた。あまり夢中になって夜中遅くまでやっていると、目を覚ました飼育係に、「受験生よりも頑張ってんじゃないの?」と励ましなのか皮肉なのか分からない声をかけられることもあった。
先日、本屋の棚を目で追っていると ↓ があった。分子で生物を見ることの、いわば原点である。福岡氏が仰る「ウラ」については述べられていない(当たり前か…)ものの、あの仮説に達するまでの“産みの苦しみ”みたいなものは、「合コン」の合間もDNAの虜になってたんだというような筆致のわずかな隙間から感じられた。
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そして次の課題はC.ダーウィンの『種の起源』である。
これはずっと以前に岩波の八杉先生の訳を読んだのだが、どうにもつらい作業だった。そこで、あるところで原著第5版のぺーパーバックを見つけ、辞書を片手に取り組んでみたものの、ダーウィンの文章ってのは回りくどくって分かりにくい。訳が悪いのではないのだということを30ページほどやって気づき、放り投げてしまった。
最近、池田清彦さんがどこかで、「大体において、生物学者でもダーウィンをちゃんと読まずに『種の起源』の中身はあぁだこうだと言ってる場合が多い…」と書いているのを見て、生物学者ではないがまるで自分のことを言われているような気がしてしまった。
幸いに光文社から新訳が出ているので、まずこいつをやっつけようと思っている。
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by luehdorf | 2011-11-22 01:22 | 読書 | Trackback | Comments(11)

やっぱりなぁ…

 高校の生物の教科書や資料集などの「進化」のところでは、脊椎動物は、魚類→両生類→爬虫類ときて、爬虫類から鳥類と哺乳類が生じたように記されている。
 このことが気持ちの中にずっとひっかかっていた。それは、不要窒素の排出の観点からである。
 タンパク質が生体内で分解されると、当然アンモニアを生じる。魚類は水中生活をしているから、そのまんまいつでもアンモニアで出してしまえばよい。両生類の幼生、いわゆるオタマジャクシも同様だ。成体になってオカに上がってからが問題になる。ふんだんに水があるわけではないから、有害なアンモニアを始終水に溶かして排出するわけにはいかない。そこで二酸化炭素と反応させて水溶性の尿素に変え、腎臓で濃縮して排出するようになった。
 爬虫類になると、陸上に殻つきの卵を産むから、発生途上で生じた不要窒素を不溶性の尿酸に変えている。これは水溶性の尿素にすると、卵の中のゴミ集積場とでもいったらよいであろうか、尿囊中の濃度が上昇し、発生中の胚から水分を奪ってしまって干からびさせることになるから、とのことだ。鳥類も同様である。そしてこの尿酸による不要窒素排出は孵化後も続く。鳥の糞の白い部分は、我々で言えば「小便」なのである。
 ところが哺乳類になると一転して、また尿素で排出するようになるのだ。これがちょっとおかしい。
 そもそも進化は一定の方向に進み、後戻りはしないのではなかったか? アンモニア→尿素→尿酸ときて、また尿素に戻った訳について記したものを目にしたことはない。だからひょっとして哺乳類は爬虫類を経ずして両生類から直接に生じたのではないかと考えていた。
 しかし、この点以外に自説を補強する証拠がなく、悶々としていた。
 昨秋、何気なく買った本で「よっしゃぁ!」と叫んだ。「人体 失敗の進化史(遠藤秀紀著 光文社新書)」がそれである。解剖学の見地からヒトの体の進化を解説しているのだが、その中に2種類の肩の骨についての記述がある。それは「烏口骨」と「肩甲骨」についてで、鳥類では肩甲骨が退化し烏口骨が発達する一方、哺乳類ではその逆に、烏口骨を消失させて肩甲骨優位の方向に進化したのだという。
 そして鳥類は爬虫類の中でも恐竜のグループが、空を飛ぶために軽量化などの点から肩甲骨を小さくして烏口骨を発達させたものであり、哺乳類は両生類から直接に生じたとする方が妥当なのだと記されている。
 このような話なら、アンモニア→尿素→尿酸とアンモニア→尿素の2系列の進化系統があったのだということになり、とても納得がいくのである。
 さも「定説」のように言われていることが多々あるが、本当はどうなのか…。色々と考えてみることは面白い。
 C.ダーウィンの「自然選択説」、来年で150年目になる。ホントに自然選択で進化を語れるのだろうか? 自然選択+突然変異のネオ・ダーウィニズムだって分からない。
 もうちょっと勉強してみるか。
 
 
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by luehdorf | 2008-03-09 01:18 | 読書 | Trackback | Comments(8)

日本酒の楽しさ

 3日に1冊のノルマを課し、年間120冊以上を読破するという目標を掲げたのは2001年だった。1冊読了するごとに手帳に記し、何とか6年を過ごした。
 昨日読み終わったのが「闘う純米酒」(平凡社)で、埼玉蓮田の「神亀」の小川原さんのドキュメントである。20年近く前、高校の同級であったH山の誘いで、ここの新酒を蔵で飲む集まりに出向き、目を見開かされた。アル添をしない純米酒、本当の日本の酒なんだって思った。だから周りが利き猪口の酒を口に含んで脇のバケツに吐き出すのを見て、「何てもったいないことを」と、次から次へと飲んでいってえらく酔っ払ってしまった。以来、自分で買う酒は純米限定になった。その日の気分で、あっためて良く、冷やして飲もうとこっちの勝手だからである。一番の好みはぬるめの燗か、熱くつけたのを置いといた燗冷まし。つまみは何でもOKである。この本にあった、酒盗の純米酒洗いはいずれやってみよう。自分でつくった塩辛と違い、酒盗の妙なうまみ(添加物の化学調味料)はとても邪魔で、積極的に買って食う気がしなかったものだから…。
 2週間ほど前、姪っ子が少しずつ楽しもうと思って買った「菊姫」の純米を、飲兵衛の父親に一晩で飲まれてしまったと言って怒っていた。いいよ、日本酒のしかも純米を楽しもうって言うんなら今度一緒にやろうと慰めておいた。
 この本を肴にまじめに飲んでみるか。
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by luehdorf | 2007-01-24 00:47 | 読書 | Trackback | Comments(2)